原作は気象職員でもあった新田次郎の小説

『劒岳 点の記』の原作は気象職員でもあり、また高倉健さん主演映画『八甲田山』でも広く知られている新田次郎の作品が原作です。新田次郎さんのい作品には、数々の山岳小説がありますが新田次郎さん自身は日本の著名な登山家の方々とも交流があり『山岳小説家』を代表する人物でもあります。「国家の品格」の著作でも知られている藤原正彦さんは新田次郎さんの息子さんになりますが、新田次郎さんの原作『劒岳 点の記』が映画化するにあたり木村大作さんは藤原さんから「原作の精神を変えなければ、どう変えても良い」との言葉から映画化となりました。

そしてこの作品には、新田次郎さんのお孫さんと藤原正彦さんの奥さんも出演されています。藤原正彦さんの奥さん藤原美子さんは吉田盛作の妻役として、そしてお孫さんたちは陸軍測量部員のエキストラとして、頭を坊主姿にしての出演です。

新田の次郎坊

本名は藤原寛人さんですが、小説家としての名前は新田次郎です。長野県諏訪群上諏訪町角間新田で誕生しました。「新田」という地名そして次郎として明治時代最後の45年6月6日に誕生しています。旧諏訪中学校から、電気通信大学の母体となった無線電信講習所本科から現在東京電機大学の前身電機学校を卒業して、気象庁の前身となった中央気象台に入庁して、富士山観測所へ所属しています。

気象職員として・・

新田次郎さんが気象職員だったことはよく知られていますが、叔父さんの藤原咲平さんは「お天気博士」の愛称で親しまれ気象の第一人者でもあります。戦時中に軍の嘱託として風船爆弾の研究にも携わったことから戦後に公職追放にあっていますが、気象の幅広い分野で研究を行った人物です。そして新田次郎さんも気象職員として大変な偉業を成し遂げられています。それは「富士山気象レーダー建設」です。広範囲の雨雲を察知することのできるレーダー施設の設置するために、気象測量機の第一人者でもありそして高山気象研究の専門家として「富士山気象レーダー建設」という大きなプロジェクトを成し遂げています。

富士山に設置された気象レーダーは、その当時で世界最高の高度でもあり世界最大の気象レーダーということで、富士山気象レーダーが完成して富士山に設置されると、そのノウハウを国際連合の気象学会で説明したりと激務の日々を送ります。「富士山気象レーダー建設」というプロジェックトに携わった経験から書かれた作品が「富士山頂」です。

小説家として・・

昭和17年(1942年)に満州国の観象台に勤務していますが、満州国での翌年に満州国の首都新京(現:中華人民共和国:吉林省長春市)でソ連軍の捕虜になり、中国共産党軍で1年間の抑留生活を送っています。この時の抑留生活の大変さそして辛さが書かれているのが、初めての小説で新田次郎ではなく藤原廣の著名で書かれた自伝小説『山羊』です。『山羊』では、抑留生活のほかにこれからは作家っとして活動していきたいという決意表明されている作品でもあります。

満州から妻とそして満州で誕生した子ども達を連れて引き上げしたときのことを、新田次郎さんの奥さん藤原ていさんが遺書のつもりで、帰国してから体験を元にして小説として書き上げた小説の「流れる星は生きている」がベストセラーとなり、当時の気象台の職員として微々たる給料で困窮していた藤原家にとってはかなり生活も助かり新田次郎さんは作家活動を考えるようになりました。そして手始めに気象の知識を生かした関係の執筆活動に入り、教科書の気象関係を書いたりするようになりました。